※えぐいネタなので、食事時のときはお読みにならないでください。
イギリスでアートの名の下に、
公開人体解剖のイベントが行われたそうで、
うわ〜、観たくないぃぃぃ(^-^;)
現代美術ってのは、コンセプトを重視していて、
背景には社会へのメッセージや、
哲学的なことがあったりして、
けっこう、ぎょっとする作品も多いのだ。
(存在する意味があんまりなくて
「ぎょっとする度合いだけ」って作品も多いです)。
なもんで、弥絵も、
コンドームが展覧会場全体に敷き詰められていたり、
床にお魚が敷き詰められていて、
時間の経過とともに腐っていったり、
血のような液体を体に塗るパフォーマンスやったり、
まあ、そういう作品を観ることには、慣れているだけど、
さすがにね・・・。
今回のイベントは、入場料を取って、
観客に切り出した内臓とかを回覧したって話なんだけど、
紹介されている文章だけを読むと、
場の雰囲気が伝わってこないから、
死者に対する敬虔さや、
メメント・モリ(死を思え)な気持ちがあったのか?とか、
はたまた、
人体の不思議を探求するパフォーマンスだったのか?とか、
その辺がわからなくて、
どうしても、アートというよりも、
エンターテインメント的な、
悪く言えば、見世物小屋ちっくな雰囲気が漂っている
気になってしまうのでありました。
もちろん、人体解剖に反対だってんじゃなくて、
かのレオナルド・ダ・ヴィンチも、
当時、禁止されていたために、 秘密儀に行われていた
人体解剖に参加したことによって、
すこぶる精密な人間描写が可能になったわけだし、
人体を知ることは医学だけじゃなくて、
美術にとっても大切なことだってのは、わかってる。
じゃ、なぜ、自分はレオナルド・ダ・ヴィンチは許せて、
この公開人体解剖は許せないのか?
目的が正当化されれば、やってもいいのか?
この辺、答えに窮します。ふぅ〜。
弥絵の原動力は人一倍強い好奇心と欲望なんだけど、
いかに好奇心が強くても、
自分にはこのイベントはできないっす。
好奇心も畏怖心には負けるのだわーと、しみじみ。
道徳的じゃなくて、信心する宗教もない弥絵が、
躊躇するってことは、畏怖の気持ちって、
とっても直感的で原始的な気持ちなんだなあ、とも思ったりして。
ところで、万が一でも、この手のイベントが
「作品」として認められた場合、
この路線の「作品」のその先に、
何があるっていうんだろう?
次の段階ではどうなるんだろう?
と、それも気になる。
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