腕白小僧がいた 土門拳 小学館文庫
土門拳を知ったのは、家の本棚に大きく
「土門拳」と書かれた写真集があったから。
子どもの頃、それを見たときは、
仏像や寺のよさがよくわかんなかったし、
土門拳のガツンと来る生々しい迫力よりも、
繊細で幻想的な、生活感や現実味のないものが好きだったもんで、
触れる機会がなかったのだけど、
今では一番好きな写真家のひとりです。
この写真集は、1930年代から50年代くらいの
日本の子どもを撮ったもので、
親の世代が子どもだった頃の写真。
女の子はみんなオカッパで、男の子はほとんど坊主。
メンコ、ちゃんばら、凧揚げ、おしくらまんじゅう、
落書き、紙芝居、焚き火(←遊びであったことを始めて知りました)などなど、
路地で遊んでいるたくさんの子どもたちが写ってます。
そういえば、外で集団で遊んでる子を見なくなったわあ。
弥絵が東京に住んでいるせいかもしれないけど、
ときたま、歓声あげて走り抜けていく
子どもの集団に出くわすと、
懐かしくて胸キュンになるくらい、本当に見ないっす。
ところで、50年くらい前ともなれば、
もう、異国の子どもの写真を見る心持ち。
いまどき、下駄や穴のあいた靴をはいている子はいないし、
はなたれ小僧も、歯っ欠けの子も、
顔にドロがついてる子も見かけない。
すんごく貧富の差が激しくて、
モノがなかったんだなーって思うのだけど、
貧相さや悲壮感はなくて、
生命力と躍動感と笑顔に満ちていて、
<いつくしみ>っていう言葉を久しぶりに思い出しました。
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「弁当を持ってこないこどもの顔は、
写さないでほしいと校長先生は気を配っている。
弁当を持ってこない子は絵本を見ている。
弁当をもっているこどもたちが何かのひょうしで
どっと笑っても、何も関係がないかのように
絶対にそちらを振り向かないのだった。」
筑豊のこどもたち(1959年)
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この手の話は、子どもの頃から母からよく聞いて、
「そういうこともあったんだ」と思っていたくらいだったけど、
実際に写真を見て、その空気を知ると、
胸つまされるものがあります。
「農家だったから食べるものには困らなかったけど、
お弁当のない子に悪くてつらかった」
という母の気持ちもよくわかる。
「平等」って言葉は好きじゃないけど、
子どもが食べるものがなくてせつなくなったり、
わびしい気持ちになる世の中にはしちゃいかんな、
子どもの笑顔があり続ける世界じゃなきゃダメだなって、肝に銘じました。
弥絵が、土門拳の写真を見て、驚愕するのは、
なんたるまなざしっ!ってとこ。
仏像やお寺の写真を見ると、
一番はっきりするのだけど、
自分にはこんな見え方はしなかった
・・・と、恥ずかしくなっちゃう。
土門拳の写真のアングルや構図が独特というような
レベルの話じゃなくて、見ている世界がまず違う。
同じ場所でも、同じモノを見ても、
深く温かく、静かに力強く、
躍動感に満ち溢れ、時に絢爛で、時に幽玄とした、
こんな見え方は、弥絵にはできない(T-T)。
修行っす。
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