「外来語の安易な使用で、
伝統的な日本語の美しさが失われる懸念がある。
よって、外来語に代わる美しい日本語を提案する 」
って主旨で、文部科学省が中心になって
美しい日本語のための委員会ができるそうな。
どうも、「初めて新しい外来語に接する人にとって、
わかりにくいし」ってのもあるみたい。
これは微妙な話だなあって思いました。
外来語が増えるというのは、
生活・文化・文明そのものが、
自国の枠から広がって、
異文化のいろんなモノが入ってきているということ。
・・・ちょっとしたことだけど、ワールドカップがきっかけで、
駅張りポスターが英語になってたり、
「ようこそ」を参加国の言葉にして、旗にした
マクドナルドの店内装飾を見て、
日本の雰囲気もずいぶん違ってきたなあってしみじみしたもんです。
たとえば、パソコンにしても、
「パソコン」「CPU」
「クリック」「メモリー」「マウス」などなど、
たくさんの外来語が、すでに当たり前のように使われていて、
「電子計算機」「中央演算装置」「一回叩く」
「記憶装置」「ねずみのような形をした入力用部品」
なんて日本語にするより、
外来語のままの方が曲解がなくて効率的。
「WWW」を「世界的規模の蜘蛛の巣」
とか言うのは勘弁してほしいわ〜(←ありえないけど)。
フランスみたいに、パソコン用語も駆逐するくらいの
アイデンティティとポリシーが根幹にあるなら別だけど、
外来語に代わる日本語って、
しょせん翻訳語でしょ?
100%置き換わる日本語はないわけだし、
それって、美しい日本語とは違うのでは?と思ったのでありました。
日本語は大切にしたいなって気持ちはあるんだけど、
言葉づらレベルの問題じゃなくて、
言葉を使う人&言葉自体が含み持つ
歴史・感覚・ニュアンス・心情などを大事にしたいってこと。
言葉がなくなった瞬間から、
その感覚や存在は抹消されてしまうので、
そりゃもったないないわーって思うのでした。
※余談だけど、そんなワケで、存在そのものを抹消する
放送禁止用語・自主規制・言葉狩りも個人的には嫌いなの。
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