奈良・東大寺の修二会(しゅにえ・通称お水取り)で、書き忘れてたことがありました。
約1ヵ月かけて行う修二会(しゅにえ)は、数々の儀式があるのだけど、これらの儀式は、もともとは人間じゃない人たちが考えたものだ、とのこと。奈良時代、実忠和尚さんという東大寺の初代別当のえらいお坊さんが、龍穴(つまりは「穴」ね)に入って修行しているときに、天上界で菩薩さんたちがやっている修行を垣間見たそうな。そのあまりのすばらしさと美しさに、天上界の菩薩さんたちに、地上でもやりたいから許可してくれ、とお願いしたところ、「天上界の1日は地上界の400年だし、地上界で人がやるのはムリだろう」と言われて、「だったら、走ってやるから、ぜひとも!」とお願いして、地上で再現されたそうな。
なにがおどろいたって、天上界に行っても、菩薩さんであっても修行してるってところです。他の宗教だと天国に行けば幸せに暮らせるとか、あるタイミングで復活してまた地上で生活できるとか、なんとなくのんきそうじゃないですか。それが、この宗教の場合、ずぅーーーーと修行。そして、自分のことはおいといて、生きてるときも死んでからも、ずぅーーーと人助け。なんて勤勉なんだろう、と。
きっと菩薩さまでも修行をしているのだから、人はもっとやろうよ、というような意味もある伝説なんだろうけど、煩悩と欲望の塊の私としては、ずーっと修行でずーっと人助けオンリーなところが、ほんとうに人に可能なのだろうか?と、不思議でした。そうはならないからずーっと修行してるのかなあ。
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