「書くことの秘儀」を読んで、ソシュールを思い出したのがまずかったっす。
たまたま、英語教育の必要性を説く情報誌の後輩の原稿チェックをするタイミングと、
今後の英語教育と英語事業を考えるプロジェクトにかり出されるタイミングが重なり、
言葉について、深い深いぐるぐるの渦に入ってしまいました。
なにがひっかかってるか、自分でもまだわかってないので、ぐるぐるしっぱなし。
すっきりしないし、居心地が悪い。
そもそも、英語ブームだけど、なんでそんなに目くじらを立てて
小さな頃から英語をマスターしなくちゃいけないのか?
英語ができたからといって日本にいる限り、就職率が高くなるわけでもなく、
英語手当てで給料が高くなるわけでもなく、生存率が伸びるわけでもない。
だいたい、英語が共通語だっていうのも、
英語を知ってる人口が多い
(=過去、英米に植民地化された地域が多いこともある) ってだけの話で、
英語が簡易に習得できる言語だ、とか、言語として完全であるから、というわけでもない。
文部科学省が「英語ができる日本人構想」を始めていて、
この先、中卒(=全国民)で日常会話レベル、大卒でビジネスに使える英語レベルを
目ざすといってるけど、そうなっても英語が必然になるかどーかよくわかんない。
ところで、英語の発音の臨界期は6歳、文法の臨界期は10歳まで。それ以降は
ネイティブ並の習得は不可能・・・という通説があるんです(だから早期教育が流行る)。
発音はおいといて、文法が10歳までってのは興味深い話で、
概念が理解できるようになる年頃に、文法の型も出来上がるってのは
納得度が高いなーと思ったわけ。
言語は文化そのもの。概念も文化。
そうした場合、概念理解ができる前に、
複数の言語(文化)をネイティブ並に
本当にマスターできる環境にあったらどうなるのか?
世界をどのように捉えるようになるのか?
たとえば、虹の色は7色とか4色とか6色とか、地域によって見ている色が違う
ってのは有名な話なんだけど、 これ、一度身についたら、一生変わることはないそうです。
虹ひとつとっても認識の違いがあるわけで、 そら、えらいこっちゃな、と。
どちらかの言語に引きずられるのか、混乱するのか?物事の認識や思考法が倍になるのか?
・・・ まあ、日本ではどんなにがんばっても母語並に外国語を習得することはできないので、
こんなこと考えることがナンセンスかも・・・なんですが。
とりあえず、今日は本屋をうろついて、英語関連の本でピンとくるのはなかったのだけど、
「バイリンガルと言語障害」「母子関係と言葉」という
障害児の治療に携わる人々が書いた
言語臨床事例集を見つけて、これがかなり興味深かったです。
というわけで、熟読中。
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